私の名前は、たぶんアイ。
たぶん高校生。
ココはきっと渋谷で……
しばらく前から私は、
よくわからない人達と、謎の生活を送っていた……――――
1st diffusion
―Fend off discovery, then the world’s a tiny place―
リビングからほのかに漂うダージリンの香りが鼻孔をかすめた。黒髪の少女は馴染のパーカーを着たままプールサイドに
そのうち一歩、二歩とプールに近付くと、透明な青に誘われるかのようにそのままプールに飛び込んだ。
少女の着ていた衣服は音もなく
プールの底から、光の射し込む水面を見上げる。
陽の光は穏やかで、水中は静寂と調和していた。
――このまま水の蒼に溶けてしまいたい。
***
水の中にいると、何故だかほんのり懐かしい気持ちになるような気がする。
……だからかな? 私は一人の時間を、たいていこの場所で過ごしていた。
今日もそう。心地よい水温に、溶け込むように身を任せた。
「****、…**!!」
遠くで声が聞こえたような気がした。
自分の知ってる、柔らかな声。
「……(アイ)!!」
今度こそそれは、確実に私を呼んだ。遠い音だったけれど、聞き慣れた声色はしっかりと耳に届いた。
光の降り注ぐ水面に手を伸ばす。息を吐き出しながら、音のする世界へと浮上していった。
水中から顔を出すと、久しぶりの酸素を吸い込む。ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
長い髪からポタポタと零れた水滴は、水面に個々の円を描いて、生き物のようだった。
「やはりここにいましたか」
高そうなスーツ。綺麗に手入れされた革靴。
相変わらずプールサイドには不釣り合いの恰好だなと思ったけれど、そんな違和感はさくっとスルーして私は聞いてみる。
「何かあったの?」
「……少し、空模様が気になりまして…………」
黒縁眼鏡がギラリと光った。
「…………行くの?」
「ええ、行きます」
「私も行く」
急いで私はプールから上がった。
***
ディーの後を追って、小走りに近寄るアイの髪がさらりと揺れた。とても水から上がったばかりとは思えない程に乾いていた。
もちろん身体も濡れていない。着ているものも完全に元通り――いつものパーカー姿に戻っていた。
***
街に出ると、人の気配はほとんどなく閑散としていた。
それでもディーに言わせれば、「今日もこの街は賑やかですね」なのだそうだ。
「…………そうなんだ?」
それ以上は聞かない。きっとココには様々な法則があるのだ。ディーもその後は何も言わなかった。
ディーには‘賑やかな街’でも、私にとっては単なるゴーストタウン。
だからよもや、そんなところで人に遭遇するなんて、夢にも思わなかった――――
「――あ、あの子……!」
‘その子’は街の静かな公園の滑り台に、一人
「ほう……公園…………ですか」
「え?」
辺りをくるっと見回したディーが、なんだか物珍しげに呟いたので、思わず私は聞き返した。けれどディーは、「いえ」と小さく返すだけで「それよりも」と話題を変えてしまう。
「見えるのですか? あの少女が」
「うん。見える。……ディーの近くにたくさんいたからかな?」
「……ふむ。そうですか」
いつのまに滑り台を降りたのか、気付くと女の子はブランコに移動していた。
二人で彼女に近付いた。
その子は私達に気が付くと、丸い目を更に真ん丸くして固まってしまう。
「こんにちは」
ディーが声を掛けても、ブランコに座った少女は何も言わない。目が合った。彼女はずっと、私を見ていた。
(………………もしかして、この子……私が見えてる?)
ディーには気付いても、私に気付く人は少ない。というより多分、ほとんどいなかった。
――それなのに。
(この子は私に、気付いたの……?)
(気付いてくれたの……………??)
「あなたは、自分の名前を思い出せますか?」
「…………」
ディーが聞いても、少女はやっぱり何も答えない。
「何か覚えていることはありますか?」
優しい声で、ディーがもう一度聞き直すと、少女は初めてディーに目を向けた。
「……覚えてません。…………何も」
少女はゆっくりと口を開いた。
「自分のことも、周りのことも…………そーゆーの全部、わからなくなっちゃって…………」
柔らかい口調。可愛らしい高い声。私とは全然違う。だけど……不安な気持ちは、きっと一緒……。
「どんな小さなことでもいいのですよ。例えば、一文字だけでも何かを思い出すことは出来ませんか?」
少女の前で身を屈め、まるで執事がお嬢様を慰めるかの様な姿勢でディーは彼女を優しく促している。
「……っ……!!」
すると少女は、急に顔を歪めて俯き、太腿の付け根をおさえはじめた。
「どうしたの?」
声を掛けても返事はない。
何かを呟いているみたいだけど、よく聞き取れない。
もっと近付こうかと思って一歩踏み出した時だった。
少女がおもむろに顔を上げて、ヤケにすっきりとした声で叫んだ。
「――――ユウッ!!」
「え……!?」
「ユウ? ……なるほど、‘U’ですか」
――U……?
私と違って冷静なディーは、彼女の叫びが何を意味しているのか、すぐに理解したみたいだった。
(U……ユウ…………)
私は、なんとなく心の中で彼女が言った言葉を繰り返してみた。するとその時、首の辺りがチクリと痛んで、何故だか心がざわついた。
「あなたには、お話ししておきたいことがいくつかあります」
そう言ってディーは、ピンと背筋を伸ばして立ち上がる。
「……ッ!?」
すると突然、彼女が空を見上げて絶句した。
私もつられるように、彼女の目線を追ってみる。
「実は――」
「ディーーッ!!」
何かを言い掛けたディーの言葉を遮って、私は空を指差し
「ク、クジラ!! 空に、クジラがっ……!!」
「…………? クジラ?」
ディーも空を見上げて目を凝らしていたけれど、瞬きを繰り返すだけで首を傾げている。
「見えないの!?」
「……見えませんね。アイには、見えるのですか?」
「見えるよ! この子だって気付いてっ……え?」
振り向くと、ブランコに座っていたはずの彼女がいなかった。
「………………ウソ……」
狐につままれたような思いで、ひとりでに揺れるブランコを見つめた。
ブランコの少女は、
∞ ∞ ∞
null――ナル
それは歳をとらないものであり、
死を迎えることもない。
そして人それぞれ――いや、ナルそれぞれ、とでも言うべきか。ナル自身の意識によっては、他のナルに視認されることもあるし、会話も出来るのだという。しかしこっちから姿が見えていても、向こうから見えていない場合やその逆もあるという。
私にとって、現状で把握出来ているナルの知識はそれくらいだった。
ああ、それともうひとつ。
ナルの外見には特徴があるのだと教えられた。もちろんそれもディーから聞いた話。
自分よりもはるかに長くこちら側にいるディーは、ナルについて随分と精通していた。
今まで、何人ものナルに出会い、その特徴や実例を集め、様々な体験を通して散々分析したのだろう。
ひとつめの特徴は、その‘目’にあった。
それぞれの個を主張するような、人とは違うカラー。それが両の目の色に表れる。
同じような色合いでも、少しずつトーンが違っていて、決して他の人とは被らない。そうやって出来ているのだと、教えられた。
まだ、この白い家に来て間もない頃の話だけれど……。
この‘色’の基準については定かではないが、「きっと何か意味があるのでしょうね。人が生まれてきたことに、必ず意味があるように」――そう言ったディーの言葉でその日の‘授業’はおしまいだった。
ふたつめの特徴は痣。身体に刻まれたタトゥーのようなものだった。
『∞』によく似たマークの痣が、ナルそれぞれの身体のどこかに印されている。
私はそれが首元にあった。
普通の人間ではないという烙印を押されているみたいで、最初はなんだか戸惑った。
まぁ、普段はネックウォーマーで隠れているんだけど……。
ナルについて知っているのは、今はその辺だけ。
ディー達はきっと、もっと色々知っているんだろうと思ったけど、どうせ時間はたっぷりあったし、急ぐ理由もない。今関わっている人以外のナルが見えなくても、別に困ることなんて全然なかった。
これからまたディーやこの白い家の人達といれば、少しずつわかっていくんだろう。
それくらいの気持ちでいた。
今までは。
だけど――――
***
「ユウを追い掛けようよ、ディー!!」
アイは、切羽詰った声で叫んでいた。
「ユウ……?」
首を傾げるディーに、アイは付け加えた。
「あの子の名前だよ」
「いえ、あれは名前とは限りませんよ。ナルが最初に思い出すアルファベットの一文字であって――」
しかしアイは、ディーの解説を遮って首を横に振る。
「ううん。あの子の名前は、たぶんユウだと思う。そんな気がする」
「…………では、仮にあの少女を‘ユウ’としましょうか」
根負けしたような口調でディーが言うと、アイはユウの消えた方角さえわからないのに、遠くを指差し「早く行こう!」とせがんだ。
日頃から物静かで、ことさら外の事に関しては一切興味無しと言った風なアイが、たった今出逢ったばかりのナルに執着していること、名前がユウだと言い張ることに、ディーは内心驚いていた。
ややずれはじめていた眼鏡の位置を直すのも忘れて、呆けたようにアイを見つめた。
やがて眼鏡を押し上げると、意を決したように、
「急ぎましょう。まだ、そう遠くへは行っていないはず」
言うが早いか、ディーは長い足で早歩きを始めたので、その後ろをアイは小走りで追い掛けた。
その瞬間だった。
アイは己の目を疑った。
さっきまで、確かに広がっていた大きな公園の遊具が、徐々に薄くなり始めているのだ。
アイは思わず足を止めて辺りを見回した。
「何? ……これ…………」
砂場、ブランコ、滑り台……蜃気楼のように次々と消えていき、かと思うと今度は少しずつ大きな交差点が現れはじめる。
大きな大きな交差点。
「ここって……あの交差点、だった、の……?」
いつも人がいなくて寂しい景色だと思っていた街の交差点。消えた公園の代わりに現れたのは、アイが日頃よく通っている交差点だったのだ。
「どうして……」
アイは眉を
すると突然――
空がゴゴゴと唸るような音を立てはじめ、辺りがうっすら暗くなりはじめる。
ディーは黙って空を見上げていた。それに追随するようにアイも顔を上げる。
「な、なに!? なんなのこれ……どういうこと!?」
真っ赤な雲。どこまでも続く赤のフォルム。信じられない景色が目の前に広がる。
黒い月。昼間だったはずなのに、真っ黒な満月が顔を出した。
そして向かい合うは真っ白な太陽。
アイは混乱した。
なにがなんだかさっぱりわからない。
有り得ない配色の雲と月と太陽が、有り得ないシチュエーションで空に存在している。
「そうか……
取り乱すアイとは真逆の、妙に落ち着き払ったディー。
「そういう時期……?」
アイは目を白黒させながら、状況を少しでも把握しようと、視線を周りの景色に移してみた。
すると道路脇に並んでいた木々が、突如桜の花を咲かせはじめて、かと思ったらすぐに散ってしまい、緑の葉に覆われたかと思うとすぐにそれは黄や赤に変わりはじめ、またすぐ枯れて……また花を咲かせた。そして、緑になって黄になって赤になって散って、また桜が咲いて……。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
目の前で、またたく間に四季が移り変わっていった。
***
早送りの地球ドキュメンタリー番組でも見ているかのように、時が一瞬でまわる。めぐる。流れていく――
「……ッ!? ……ディー! あ、あれ……!!」
私は空を指差し、ディーを見た。
「さっきのクジラ……!!」
まさにそれは、天変地異だった。
空の青の中を、実物の数十倍とも思える巨大なくじらが、悠々と泳いでいるのだ。
大きな尾ビレを翻して、水面を叩くように胸ビレを空に広げた。その表情は、私の視線に気付いているのか、時々こっちを見て笑っているようにも見えた。
なんで……?
なんでこっちを見ているの?
ディーにはこれが見えないの?
ユウにもこれが……私と同じものが、見えていたの?
次々に浮かんでは消える疑問。だけど言葉にはならない。
奇天烈な光景ではあるが、それはとても美しかった。
同時に、美しすぎることが恐怖となって心を震撼させた。だけど何故だか、どこかに懐かしさも感じていた。
「やはりその‘クジラ’とやらは、私には見えませんね。……もしかすると、あなたとユウの意識が何処かで共有されているから、あなた達二人にだけ、見えるのかもしれません」
「共有……?」
「……来ましたね」
ディーが呟いた。
これ以上いったい何が来るというのか、私はディーの背中にしがみ付くようにして彼の目線を追い掛けた。
その先には――
黒い雷が空で暴れているみたいに、何本もの真っ黒い筋が、赤い雲の間から伸びてきていた。
(これは何!?)
夢中になってこの現象を眺め続けた。
「きゃっ!!」
突如、人とぶつかりそうになった。空に気を取られて周りをちっとも見ていなかった。
危ない、危ない。
寸でのところで通行人を避け、ほっと一息ついた。
…………。
――人と? ぶつかる??
待って??
自分に問い掛けた。
ここには、私とディーしかいなかったはず。少なくとも私には、そう見えた。
じゃあ、一体誰とぶつかるっていうの!?
目を凝らしてもう一度、私は交差点を見回した。
信じられないことに辺りには、たくさんの人、人、人。
人の群れが、ものすごい勢いで交差していく。
さっきまで全く見えなかった人の姿が、こんなにもはっきりと、私の目に映り込んできたのだ。
信号が変わり、たくさんの人が道路を渡る。
――私たちを、すり抜けて……。
誰も気付かないの?? それとも…………何も見えていないの??
赤い空から延びた黒い筋は、この地上へと真っ直ぐに続いていた。
あちこちに着地した黒い筋の先に、ボーっと突っ立ったままの人たちが見えた。
彼らは、
錯乱して
そして唐突に、黒い風に包まれて姿を消してしまう人もいた。
「……っ!!」
声にならない声が出た。
しがみ付いた手に、ぎゅっと力を込める。ディーの身綺麗なスーツに皺が寄る。
「アイにも見えるのですね」
ディーは交差点を見回しながら、言葉を発した。
「……そう、みたい」
言葉にし難い感情がこみあげる。
人って、こんなにたくさん居たんだ……。
今まで気付かなかった。そうだったのか。ここは、‘自分だけ’の世界ではなかったのだ。
「関心を持たなければ、何も見えません。ですが、感じようとさえすれば、見ることは出来るのです。触れることだって、出来るのですよ。ですが、自我を失ってしまうと消えてしまうこともあります……
「………………」
何も言えなくなる。言葉が出なかった。
自分と同じような年頃の子たちもたくさんいたのに、誰にも気付かれることなく、哀しい目をしたまま消えてしまった。
ディーの言う通り。他人事には、思えなかった。
そう。だって、私はこういう状況を知っている……。
あれは……あの時見た黒い霧だ。――ココに来たばかりの頃、私の身体から出てきた黒い霧。
不安で、怖くて仕方がなかった。
きっとさっき見た子たちも、同じ気持ちだったんじゃないかと思う。
こんな光景を見ても、何も出来ない私って、いったい何なんだろう……??
自分の無力さを思い知らされる。
私には栗色の髪の少女は見えなかったけど、黒い風だけは見えていた。その風に包まれて、少女が消えてしまったことを、後になってディーから聞かされた。
必死に何かを語りかけるディーに対して、その時の私は、それを黙って見ていることしか出来なかったんだ……。
私の存在って、何だったんだろう……??
このまま、今までと同じことをしていたって、私は何も変わらないのではないだろうか……??
「………………ディー」
私はディーを見つめた。
そうしてひとつ、深く息を吸った後で、でもずっと強い意志を込めて私はディーに宣言した。
「私……ユウを――あの子を捜したい……!!」